こんにちは。竹内です。
真珠養殖の歴史について、詳しくはみなさまそれぞれに検索していただくとして、実際に養殖事業者が生まれ、産業として活発になったのは昭和です。
諸説あると思いますが、戦後間もなくのことと思っていただいて良いかと思います。賢島に国立真珠研究所が開設されたのが昭和30年ですので、その頃には養殖事業が活発に行われていた、今回の話にはその程度の知識で充分なので進めさせていただきます。
当時、生産量の大半を輸出していました。
輸出できたということは、バイヤーがいたということになります。日本の事業者が海外に売り込みに行ったという話も聞いておりますが、大量の商品を持って海外ツアーをすることは無理で、実際はサンプルをもって売り込みに行き、興味を持ってもらえたら日本に仕入に来ていただくという関係性の構築が目的だったようです。
では、バイヤーはどうやって日本に仕入に来ていたでしょう?
日本航空が国際定期便「東京=サンフランシスコ 線」の運航を開始したのが昭和29年(1954年)ですから、まだまだ船が使われていた時代だったわけです。
では、船でどこから入国したか?なのですが、神戸が主となっていました。
勘の良い方はもうおわかりでしょうが、まだちょっと待ってくださいね。
真珠養殖の現場は志摩ですから、神戸から志摩まで移動してもらわなければなりません。
当時の列車事情はというと、JRはすでに鳥羽まで通っていて、私鉄は賢島まで通っていましたが、養殖現場はそこからさらに移動しなければならず、自分がバイヤーだったら「仕事とはいえ行きたくねぇ」と思ったことでしょう。片道の移動だけで丸一日かかっていたことでしょう。
で、資本主義は当然競争を生みますから「うちだったら伊勢で商談可能です」をセールスポイントとした事業者が現れ、「神戸で可能です」も現れたわけです。
そのうちにバイヤーが飛行機を利用する時代が訪れ、神戸に事務所を置く意味が違ってきたのですが、撤退した事業者もあれば、神戸に駐在していた人が独立してそのまま神戸で事業を継続した例もあり、結果として神戸に多数の真珠業者が残ったわけです。真珠養殖とは無関係に見える神戸が今でも真珠の町といわれる背景にはそういった歴史があります。
バイヤーの利便性を考えるなら伊勢である必要はなかったじゃないかと思われる方もいらっしゃることでしょう。当時は今のように物流が発達していませんでしたので、自分たちで真珠を運ぶことまで考える必要がありました。志摩に仕入に行くときの利便性を考える必要もありました。当時の志摩の人たちが現実的に進出できるところが伊勢だったわけです。
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